青森ほたての歴史ゾーン

青森ほたての歴史ゾーン

ホタテ養殖に尽力した人

 むつ湾には古くからホタテガイが生息し、10年~20年に一度、大発生を繰り返してきました。縄文時代では貝塚から発見され、江戸時代では中国への俵物として幕府の財源ともなりました。
 しかし、自然発生に依存していた時代のむつ湾のホタテガイの生産は、自ずと激しい変動の繰り返しで、この変動をなくし安定した高度の生産を確保することがホタテ漁業に携わる者の長い間の念願でした。
 その願いが叶い、今日のように百億円を超える産業にまで発展した裏には、ホタテ養殖の研究に心血を注がれた山本護太郎博士、ホタテ養殖がまだ雲をつかむような話と思われていた時代にその必要性を訴え、自ら実践してホタテ養殖の基礎を築いた豊島友太郎氏、ホタテ稚貝の画期的な採取方法を考案した工藤豊作氏等、多くの先人の苦労と不断の努力があったことを忘れてはなりません。
 養殖技術が発達し、種苗の量産化、計画生産が可能となり、ホタテ漁業は飛躍的に発展しましたが、むつ湾のホタテ漁業関係者は、ホタテ養殖にかけた先人の意志を引き継ぎ、これからも良質なホタテガイの生産を目指しています。

豊島友太郎

豊島友太郎 とよしまともたろう

明治32年(1899)~昭和40年(1965)

ホタテ養殖、中間育成篭の考案く

ホタテ養殖の先駆者。平内町浦田出身。 昭和19年から漁業関係一筋に生き、昭和30年、採る漁業からつくり育てる漁業に転換し、ホタテの育苗生産に取り組む。
友太郎は昭和40年病に倒れ他界したが、その意志を継ぎ、昭和45年頃から、ホタテ種苗の附着と中間育成篭の研究成果が現れ、ホタテ養殖は成功し、画期的な漁業の革命をもたらした。ホタテ養殖理論を実践に移した第一人者。

山本護太郎

山本護太郎 やまもとごたろう

大正3年(1914)~

ホタテ養殖の道をひらく

ホタテ養殖の研究者。理学博士。秋田県雄勝町出身。
青森県水産実験所勤務となり、ホタテ養殖に向けて研究を始める。世界で初めてのホタテ人工産卵に成功し、ホタテの基礎研究で理学博士号を取得。
豊島友太郎と共にむつ湾ホタテ養殖の祖として漁業から尊敬されている。

工藤豊作

工藤豊作 くどうとよさく

明治33年(1900)~昭和54年(1979)

ホタテ養殖、タマネギ袋の考案

ホタテ養殖の先駆者。平舘村舟岡出身。ホタテ、アカガイの稚貝採苗法を考案。本県ホタテガイ養殖漁業振興に貢献。採る漁業からつくり育てる漁業への道を開いた。
タマネギ袋に杉の葉を入れて採苗に成功。移行百億円産業に確立する土台を作る。

青森のホタテ養殖の未来

ホタテブランド化による漁業振興

 青森県のホタテ養殖漁業は、半成貝を主体とした加工向け生産が中国と競合するとともに、活貝販売では三陸地方や北海道の大型貝に押されていることから、価格の低迷が続き、漁業生産者の経営は厳しい状況となっています。
 そこで青森県では貝の大型化や新たな水産加工製品の開発、ホタテの旬の味を活かすなどの県内外向けホタテ活貝のPRと、それにともなう販売ルートの開拓。確保などのソフト面を充実させ、「青森ほたて」として味、品質の面でのブランドを確立し、産地間競争での優位性を保つ取り組みが急がれます。

生産の合理化と販売の促進

 今後もホタテ養殖漁業を維持・発展させるためには、密殖の防止などの適正技術の普及と後継者も漁業に就けるような経営体個々の労働環境や経営環境の改善を進めるとともに、生産現場での共同事業や荷揚場での共同施設の導入を促進し、労働負担の軽減するなど生産の合理化を図らなければなりません。将来に向けて足腰の強い経営を確立するため、新たな技術の研究や実践に産学官の連携が必要です。
 販売については、新たな消費の掘り起こしが望まれます。「青森ほたて」への理解を促すため、試食会や体験ツアー、イベント開催などさまざまな試みを展開しています。
 この「ほたて広場」もほたての情報発信基地として建設され、県内外へ積極的に観光情報を発信し、ほたて産業の活性化を促進します。

地球環境との取り組み

 ホタテガイはきれいな水からつくられます。きれいな水は海、川、山とつながり、ホタテ養殖の漁民も地球環境を配慮し、山に木を植える活動をしています。
 また、これまで産業廃棄物として処理されてきた貝がらの再利用が進められています。古タイヤと混ぜて歩道の舗装材、貝がらを砕いて農地の土壌改良材、リンゴの絞りかすと組み合わせて融雪剤、パウダー状にして壁紙材、消臭剤等、地球環境にやさしい幅広い活用が展開されています。

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